Писмо
タイトルは、ブルガリア語で、「手紙」の単数形。
物心ついた時から、母は入退院を繰り返していた。
父の養父母と同居して、家業を一緒に手伝っていたけれど、この父の養父母が自分達の勧める女性と結婚せずに、ハーフと結婚したから、チクチクといじめたので、見かねた病院経営をしていた父の従兄弟が理由をつけて、母は入院させていた。
いびりがあまりにも酷くて、体が悪くなり、東京や当時、実家のあった愛知県の病院にも入院していた事もある。
さすがに、小学生の私を筆頭に2人の妹を連れて、東京や愛知の病院へ、父1人で連れて行くのは、金銭的にも体力的にも大変だし、携帯もパソコンもない時代。
手紙だけが、私と母を繋ぐ絆だった。
母からの手紙が届くと、嬉しくて嬉しく何回何回も読み返した。
当時は可愛いレターセットなんてなくて、白い縦書きの便箋と白い封筒のやり取りだったと思う。
11歳から書かない文通、15歳から海外文通を始めて、今に至っている。
一番長いペンパルは、もう30年近く文通している。
手紙が届いた時のあのワクワクは、母の不在でずっとずっと寂しい思いを抱えて、それでも長女だから、寂しいなんて言えなかった私には暖かい光だった。
今もそう。
遠い遠い国々で、いろいろな肌の、いろいろな宗教の、様々な年代の人達から届く手紙。
彼らの思いを嬉しく思い、私も心を込めて返事を書く。
なんて、贅沢なひと時なんだろう。
その為にも語学は必要な私です。
画像は、2014年11月1日、富山県氷見市。
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